演劇と建築 鳥の劇場「戦場のピクニック」鑑賞

9月18日土曜日。鳥の劇場にて「戦場のピクニック」を鑑賞してきた。初めての演劇鑑賞で思うところが多かったので書き留めておく。

演劇と鑑賞者との「間」を、どう表現するか

 いろんな感情を掻き立てる、心と頭を揺さぶられる作品だった。演劇は初めて見たけど、リアルなドラマなどとは違い違和感の大きい演技だからこそ、いろんな感情を受け取りやすいと思った。

 演劇後、鳥の劇場 芸術監督の中島諒人さんと話をする機会があった。「演劇で生まれる芸術・表現とは、演劇(と俳優さん)と、鑑賞するお客さんの間で生まれるもの。その間の部分(空間)をどう表現するかが大事。それは建築においても言えること。建築家が作る建物そのものではなく、建物とクライアントの関係の中で生まれる、生活などの「間」が大事でしょ。」といった話をして頂いた。その「間」のなかで何をどう揺さぶって、どんな違和感を残し、演劇を表現するのか。それが鑑賞者との対話なんだなと深く納得できた。

人間の普遍的心理と制御不能な大きな力

 内容は戦争とそこに折り重なる日常の風景。家族という空間からいろんな普遍的であろう「人間らしさ」を感じることができた。今のコロナの時代だからこそ、重ねて考えられるシーンが多かった。

 アフタートークで議題に上がった一つは、大きな力が働いているから起こる滑稽な行動と人間の共通した心理。演劇では、敵も味方も「訳もわからず戦争をしているシチュエーション」が表現されていた。しかし、本質を突き詰めるとお互い戦争なんかしたくないし、意味もないことにお互いが気づくという滑稽さがあった。

 今の時代で考えると「ありえないだろ!」と思うシーンがとても多かったけれど、それが戦争という力によって成り立ってしまっていた現実は、今後そのような心理状況に陥ってしまう可能性があるものだと受け止めなければならない。

 そしてコロナ禍の今も、そんなことは十分言えるような気がする。何が本当の情報なのかもよくわからない状況。マスコミも全く信用できない、何を信じたらいいのかわからない。全体が見えないからこそ、勝手に自分は踊らされているんじゃないかと思うことが多々ある。無意識に意思決定させられている可能性があることを改めて思い、恐怖を感じた。ナチスドイツの歴史なんかはもっと見ておくべきかな。

時代は繰り返す。振り子のように?

 中島さんは演劇が昔の時代状況と今を比較して考えるいい題材であり、時代はふりこののように同じことを繰り返しているのではないか、と言っていた。

 確かにそうかもしれない。建築分野で整理してみる。

 建築の歴史も2つの流れによるパラダイムで成り立ってきた気がする。一つは過去を否定し完全なる新規性を求めるもの。もう一つは過去に回帰しそれらを再解釈するもの。この中で、時代を遡るスケールがだんだんと大きくなって、ふりこのような動きをしているのではないか。

古代

人間は神を意識してパルテノン神殿などを建築する。神は多神教。様式が生まれる。

中世

キリスト教の世界。一神教。古代を否定し、新しい様式が誕生。

近世

ルネッサンス。調査研究が進み、中世様式を否定。古代様式に回帰する。

近代

古代から近世に至るまでの一切の様式を否定。過去を全て否定し、新規性を求める。

現代

2つの潮流。一つは近代までを全て否定し、デジタルを駆使した新規性を求める流れ。もう一つは歴史回帰。それも古代ではなく、原初に回帰する。

現代は多様性の時代だからこその流れかもしれない。今後振り子のスケールがさらに大きくなるとどんな世界になっていくのだろうか。

さいごに、鳥の劇場の立役者、中島さんの考えにとても共感したので、リンクを貼っておく。↓
鳥の劇場って?|鳥の劇場

Follow me!

演劇と建築 鳥の劇場「戦場のピクニック」鑑賞” に対して1件のコメントがあります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です